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1-1 縄文時代 縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世の末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や、定住化に伴う集落(環状集落など)の形成、長期使用可能な建物(竪穴建物・平地建物・掘立柱建物)の普及、貝塚の形成などがあげられる。
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴建物に住んだ。
1-2 弥生時代

紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生土器に由来する。弥生時代の開始期に大陸からハプログループO1b2 (Y染色体)に属す弥生人が到達した[10]。水稲耕作が普及し、青銅器や鉄器などももたらされた。

稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。

1-3 古墳時代 3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。この時期に通称古墳人が渡来したという説がある。3世紀中頃に近畿地方に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州(筑紫)・北関東(毛野)・山陽(吉備)・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている(前方後円墳体制)。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。
1-4 飛鳥時代 6世紀末から8世紀初頭までは、大和朝廷の本拠が主に飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半には朝廷の国内支配が安定し、むしろ朝廷内部の大王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。仏教・儒教・道教等の書物が入ってきたことで、この頃から文字の使用が普及する[11]。6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも7世紀前半にかけて推古天皇とその甥厩戸王(聖徳太子)が、王殺しである蘇我馬子を牽制しながら大王(天皇)主権を確立しようとした。
1-5 奈良時代 8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。そして遣唐使を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期聖武天皇のときに中宮職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると百姓階層の分化が始まり、逃散増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
1-6 平安時代

8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。

王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。

1-7 鎌倉時代

12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。

13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の元寇によって加速した。恩賞の払えない幕府は徳政令を発布したり得宗専制をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた封建制を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。

1-8 南北朝時代

14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統後醍醐天皇流の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。

鎌倉時代中期以降、皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承を巡り争い、鎌倉幕府の介入により両統迭立状態となっていた。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は幕府を滅ぼそうとするも失敗し、廃位されたのち隠岐に流され、皇太子であった光厳天皇(持明院統)が即位した。しかし、隠岐を脱出した後醍醐天皇は再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞らにより鎌倉幕府を滅亡させる。

後醍醐天皇は、光厳天皇を退位させ、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、公家や武士など様々な層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、光厳上皇の協力も得て建武政権を崩壊させた。京都で持明院統の光明天皇(光厳上皇の実弟、猶子)が即位したのち、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を成立させた。対する京都の朝廷を北朝と呼ぶ。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。情勢的には、一部期間(正平一統など)を除き、京都を掌握し武家政権を擁する北朝が優勢を誇り、大多数の公家や皇族、武士から支持を得た。

1-9 室町時代

14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。京都に本拠を置いた幕府は、足利尊氏・足利直義兄弟による二頭政治を行った。観応の擾乱以前は、朝廷(公家政権、北朝)と幕府は協調・連動して徳政政策を行っていた[17]。しかし、観応の擾乱を経て幕府は幕府権力を一つに統一し、対して朝廷は権威を失墜させると、幕府は朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷は政治実権や政治機構を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。

足利義満は南北朝合一を遂げ、朝廷を北朝に統一した。また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。

1-10 戦国時代

15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した織田信長は、楽市楽座令を出したり、自治都市の堺を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い、強大な軍事力を手にした。

この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が始まり、火縄銃やキリスト教などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は江戸幕末まで日本の政治・経済に影響を与え続けた。

 

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