何かしらの問題を見つけ、その解決に取り組むとき、私たちには二つの力があるようです。それは「恐怖」と「希望」です。

 恐怖は、その問題に対するリアクションで、不安から始まり妄想することで肥大化していきます。例えば通り魔事件の報道を知ると、自分も被害に遭うかもしれないと怖くなります。もしその報道を知らなければ何事もなく過ごしていたはずの明日が、突然不安に満ちた日に変わるのです。そして、恐怖を取り払うために考えようとします。このときに私たちがよく使う言葉が「どうしたらいいの?」です。

 希望は、その問題に対する未来像を描く創造性が原動力となります。その問題がどこからやってきて、問題が解決したときとはどのような状態なのかを考えることになります。

 例えば誰かが困っている時、何がその人にとっての解決なのか探る必要があります。解決する先が見え、そうなりたいと願うことが希望を生み出すのです。このときに私たちがよく使う言葉が「どうしたいの?」です。

 恐怖を原動力とした行動には瞬発力がある一方、持続性はありません。希望を原動力とした行動には瞬発力よりも持続性が必要となります。どちらが良いかという判断ではなく、どちらを主目的にしているかが重要です。それによって、考えることが大きく変わるからです。

 一過性の出来事や、ちょっとした手順の確認をしたい時など、日常に頻繁に起こる些細な問題は、だいたい方法論で片付けます。問題が起こったときに感じたリアクションが原動力となり、目先の問題が解決できればそれでいいのです。

 

 対して、自然環境や社会問題のような複雑で変化が遅い問題の場合、毎回の出来事に反応して場当たり的に行動していても解決できません。今日1日車を使わず自転車通勤しても、温暖化問題は解決できないのです。それよりは、クリーンなエネルギーが使われる未来を考えたり、自転車通勤を習慣にしたり、自分の日常に問題意識を加え、肯定的に問題と向き合う姿勢を作る必要があります。

 生涯学習とか、考える力を養う公教育が目指しているのは、希望を原動力とした創造的な人材のはずです。なぜなら、この力を習得することが大事であり、自然に身につけることが難しいからです。

 

 恐怖を原動力とした問題解決方法の場合、その問題は自分にとって排除すべき敵となりがちです。問題を考えるたびにストレスになり、怒りがこみ上げ、主観的に思考してしまうのも、そもそもその問題が自分の敵だからです。防衛本能というか、闘争心というか、とにかくそうした攻撃的な思考が強まります(そして攻撃的思考ゆえに誤った思考に陥り失敗します)。

 希望を原動力とした問題解決方法の場合、その問題は自分にとって敵ではなくなります。なくすための努力ではなくて、付き合い方を身につけるとか、課題に取り組むことで自分にとってもプラスになるものがある、という具合に考えます。例えば、自転車通勤にしたら体力がついた、地域に愛着がわいた、新しい発見があった、という具合です。

 

 多くの情報に触れられる現代社会では、今まで以上に多くの刺激を受け、リアクションに従った行動が起こりやすくなります。リアクションに反応する受動的な行動に慣れると、一つ一つの刺激に対してじっくり考える方法が身につかなくなるので、さらにリアクションに頼って行動する受動性を習慣化してしまいます。その方が楽だからです。これがいわゆる「指示待ち症候群」の発症原因です。

 指示する側も「怒るよ」「点数下がるよ」「恥ずかしいよ」などの不安と恐怖を引き起こす言葉を使えば、相手を意のままに動かせますので、指導方法もそれほど難しくありません。

 プロスペクト理論によれば、人は喜び(快楽とはちょっと違うので注意)より苦しみの方を意識しやすく、その割合は喜びの2倍ともいわれています。つまり、希望1に対して恐怖2なのです。自然と人が恐怖を原動力に問題を考えようとするのも納得です。でもその問題解決方法が本質的な解決に向かわず、目先の安心や安全欲求を満たすだけに終わってしまうことが、人間社会が抱える根本的な問題なのでしょう。

 

 人間はDNAの中に失敗するよう行動するプログラムが仕込まれていて、それによって生じた問題に頭を抱える矛盾した生き物のようです。

 では、子どものスマホ利用問題はどのように考えたらいいのでしょうか?ネットいじめとかゲーム障害とか学力低下など、子どもが起こす問題(出来事)に対するリアクションで考えていくべきなのか?それとも、それらの問題を作り出している生活環境に目を向けていき、子どものより良い成長という希望を力に考えてくべきなのか?

 ど・ち・ら・も・重要です。